宝珠のおたより

園長 倉松宗道について

こんにちは、宝珠保育園の園長の倉松です。
昨年からスタートしました「宝珠のおたより」ですが、おかげさまで色々な方から「読んでいますよ!」とお声がけをいただくことも増え、大変嬉しく感じております。

そんな中「園長ってどんな人?」「園長以外には何かやっているの?」という質問をいただくことも増えました。
そのため今回は、改めまして、私「園長倉松」の自己紹介をさせていただければと思います。

毎日忙しい父と母。様々な大人に育ててもらった幼少期

私、倉松宗道(クラマツ シュウドウ)は、ここ日光市土沢で生まれました。1985年に生まれ、現在36歳。宝珠保育園の園長であると同時に、宝珠院の副住職でもあります。
昨年の秋には第一子が生まれ、「父」として子育てにも邁進中です。

宝珠保育園の設立は昭和55年(1980年)です。
この5年前、廃寺寸前だった宝珠院を復興すべく、私の父が住職として、この土沢に赴任してきました。
その復興した宝珠院が「地域のために」と開設したのが、この宝珠保育園だったのです。

そのため私の父は、宝珠院の住職と園長との両方をこなす毎日。
母も、お寺の仕事と副園長の仕事で大変忙しかったようで、私という息子1人に構ってばかりもいられません。

私も物心ついたころから、ずっと保育園にいました。
3歳くらいのころだったでしょうか。夜になっても父と母がなかなか帰って来ないと思ったら、次の日の運動会の準備に追われていた、なんてこともありました。子どもながらに「忙しいんだな~」とは思いましたが、そんな日常の中でも「さみしい」の「さ」の字も感じたことはありませんでした。

子育てに関しては、母方の伯母がサポートに来てくれました。
また、日中は保育園にもいましたし、お寺に来てくれる檀家さんたちも、可愛がってくれました。
父や母とべったりと過ごしてはいなかったものの、私の周りにいた沢山の大人たちが、多くの愛情を注いでくれたと思います。だからこそ私は「みんなに育ててもらった」という感覚があります。

宝珠保育園園長幼少期

外で遊ぶのが楽しい!体験・経験の大切さを知る原体験

1人で動き回れるようになってからは、外で遊んでばかりいる子どもでした。

当時のこの地域は、今以上に自然がいっぱいの田舎で、大した危険もありません。危険があるといえば熊くらいです(笑)

友だちの家に行ったり、田んぼ道を歩いたり。

山の中に入ってみたり、川で泳いでみたり。

「冒険」という言葉に心が踊る年頃でした。

小学校に入ってからも楽しい思い出ばかりで「学校ってワクワクするところなんだ!」と感じていました。

それは、出会った先生の影響も大きいと思います。

小学校3年生のときの、担任の先生は「よし!今日は13日の金曜日だから、ジェイソンを探すぞ!」なんて言い出し、生徒たちを近所の廃校へ連れ出すのです。

日曜日になれば、その先生の家に集まって、ペーパーナイフを作ったり、川に遊びに行ったり。

ギターを弾いてもらって、みんなで歌を歌うなど、色々なことをしました。

もちろんこの先生のやり方には賛否両論あるとは思いますし、正直、今だったら問題になってしまうかもしれません。

しかし、普通ではできない経験や体験をさせてくれた当時の先生には、感謝でいっぱいですし、今の宝珠保育園でも大切にしている「体験や経験を大切にする」につながる、原体験はここだったと思うのです。

“バスケがしたいです!” 小学校から高校までバスケ一直線

小学校4年生になると、部活動が始まります。当時ブームを巻き起こしていたのは、今でも有名なバスケットボール漫画『SLAM DUNK』(スラムダンク)です。学校の男子の半分近くがバスケ部に入部するくらいの大人気。

一過性のブームなので辞めてしまう人も多かったのですが、私はバスケの奥深さにハマり、バスケを続けたいという気持ちが冷めることはありませんでした。

『中学生になっても、バスケを続けたい』と思っていた私。

しかし、私の学区の中学校にはバスケ部がありませんでした。

どうしよう…と困っていたときに、当時の担任の先生から、作新学院中等部の受験を薦められたのです。

周りに中学受験をする人はあまりいませんでしたが、「バスケを続けたい」一心で、受験勉強のために宇都宮の塾まで通うようになりました。

電車とバスで塾に通う毎日。人から見ると大変そうだと思われるようですが、実はそれも楽しい時間でした。

「人とは違うことをしている」というワクワク感や、いつもとは違う場所、異なるタイプの友人たちに会うのも面白くて、楽しみだったのです。

時々塾をサボって、宇都宮の街なかを1人でウロウロしたことも、いい思い出です(笑)

無事に作新学院中等部へ入学ができ、念願のバスケ部へ。勝手に「強いバスケ部」を想像していたのですが、実際はあまり強くなく、少し拍子抜け。

しかし好きなバスケも続けられて、周りの友だちや先生も、個性的な人たちが多く、部活も勉強も楽しい中学生活でした。

そんな中学生活でも、忘れられない出来事がありました。

それは、学校のルールを破ってしまい、一度だけ先生にビンタをされ、叱られた日のこと。

とても痛かったです。でも、全く嫌な気持ちにならなかったのです。自分が悪いと素直に反省ができました。

もちろん体罰は良くないことです。それを肯定するつもりは全くありません。

でもあの時、ネガティブな気持ちを抱かなかったのは、私自身が先生を、心から信頼していたからだと思っています。

先生は

いつも、私たち生徒1人ひとりの話を真剣に聞いてくれる人でした。

いつも、生徒を信じて味方でいてくれる人でした。

いつも、生徒1人ひとりに対して、愛を持って接してくれる人でした。

だから当時の私は、強く叱られたことに対して、嫌な気持ちを一切感じなかったのです。

親子関係においても、親が子どもを叩くなどはするべきでなないと思います。

しかし、つい言葉で強く叱ってしまうことがあるかもしれません。

それでも、普段から親と子の信頼関係や愛情があれば、伝えたい気持ちが伝わるはずです。

そういう私の考えは、中学生時代のこのような体験が背景にあったからだと思います。

※20年以上前のたった1度きりの出来事です。
愛情深い、大好きな先生との思い出話であり、当時の中学校や先生には、大変感謝をしております。
日常的に体罰があったなどの事実は全くございませんので、誤解のないようお願いいたします。

高校卒業までは自分がやりたいことをやり切る!

中学卒業後、高校も作新学院高等部へ進学しました。

最初は「宇都宮高校へ行こうかな」と思ってはいたのですが、地元の友だちとバスケをしているときに「高校は同じところへ行って、一緒にインターハイへ出よう!」という約束をしたためです。

約束通り、みんなで作新学院のバスケ部に入り、もう365日バスケ漬けの日々でした。

キツイと感じることもありましたが、それでも「バスケをするのは高校まで」と決めていたので、やりきろうと思っていました。

私は、住職になると心に決めていたからです。

少し話が戻りますが、私の父は宝珠院の住職でしたから、私がお寺を継ぐものだというのは子どものころから理解はしていました。

ただ子どものころは「頭を坊主にするのは嫌だなぁ」と思う程度。

中学2年生の夏、住職である父から「般若心経を覚えるように」と言われました。

般若心経を覚えたら、お盆の先祖供養へ「1人で行ってこい」と出されたのです。

檀家さんの家で、覚えたてのお経を唱えます。まだまだ拙いお経です。

それでも、皆さんがすごく感謝をしてくれたのです。「俺が死んだら頼むぞ!」なんて言ってくださる人も。

皆さん、自分が子どもの頃から可愛がってくれて、成長を見守ってくれた人たちばかり。

その人たちが、こんなに喜んでくれる。こんなにありがたいことはありません。

「自分はこの人たちのために、お坊さんになるんだ!」と決意が固まったのは、この時です。

そうやって、将来を決めていたからこそ、高校生まではやりたいバスケをやり切ろうという気持ちでした。

約束した仲間とインターハイへの出場と好成績も残し、後悔のない充実した高校生活でした。

「自分のやりたいこと」に全力で打ち込む時間を持てたからこそ、次は「人のために生きよう」と気持ちを切り替えることができたのです。

中学受験をしたいと言ったときも、仲間と一緒に作新学院に行きたいと言ったときも、父や母は一切反対せず、好きなようにやらせてくれました。今でも、心から感謝をしています。

宝珠保育園園長バスケ部時代

修行の中で、人として成長するということ

大学は「大正大学仏教学部」へ進学し、住職へなるための道を歩み始めました。
春休みや夏休みも、修行で京都へ行くなど、勉強の日々。それでも高校生までバスケ一直線だった自分にとっては、あらゆる学びが新鮮で、興味深いものでした。

大学卒業後は、まず「成田山 東京別院 深川不動堂」へ入寺。
宝珠院に戻るまでに、もっと「外の世界を知りたい」「厳しい環境に身を置きたい」と修行先として希望したお寺でした。
深川不動堂の「護摩祈祷(ごまきとう)」は、大太鼓を4台も使い、日本一とも言われ、多くの方がご祈祷に訪れます。

修行をし、多くの方が祈っている姿を目にする中で「人間に必要なのは祈りでは?」と考えるようになりました。どんな方でも、何らかの形で「祈った」ことはあるはずです。祈る方たちに対し、自分が少しでも仏の力をお届けできる存在になれれば、と考えるようになったのは、この頃です。

修行では、滝行や水行、山岳修行などあらゆる修行をしましたが、嫌になることはありませんでした。むしろ、私が人より生意気なところがあったので「人としてのあり方」を直していただいたことのほうが、強く印象に残っています。

約3年間、深川不動堂にお世話になる中で、初めて「社会」を知り、生きること・死ぬこと・親や先祖への感謝を深めるとともに「正しく生きなきゃいけない」と気持ちを引き締めることができたように思います。

宝珠保育園園長修行風景

人との関わりの中で実感した「利他」の心

深川不動堂での経験を経て、「今後はこの地域の皆さんに恩返しをしたい」という気持ちで土沢に戻ってきました。そして次は、父が築いてきた土台をどう発展させていくかという課題に向き合うときでした。

特に保育園の仕事は、全くの畑違い。経営やマネジメントなど、独学で学ぼうとしましたが、中々自分の中に浸透しない感覚もあり、戸惑いました。学生時代のバスケでも、住職の修行時代も関わるのは男性ばかり。急に女性と子どもに囲まれる生活は、今までとのギャップが大きかったのです。

土沢に戻って間もなく、日光青年会議所から入会の誘いを受けました。
青年会議所とは、簡単に説明すると「明るい豊かな社会のために活動する」団体で、地域の経営者やあらゆる職種の人たちが集まり、協力し合い、自分たちの入会金を予算として活動をしています。

日光だけではなく、市町村ごと、県ごと、関東地区などのブロックごと、そして全国を統一する青年会議所があります。

この青年会議所では、今まで接してきた「お坊さん」以外の方と話をする機会を得られました。
皆さん勉強熱心で、情報感度が高いので、集まりに行くたびに1.5歩先の情報や、学びが得られるのです。

そういった多くの先輩方と接し、学ばせていただく中で一番驚いたのは、皆さん本業が忙しいにも関わらず「地域のため、街のために、自分は何ができるか」を真摯に考えていることです。

仏教の中には「利他」という言葉があるのですが、「これは自己の利益のためではなく、相手のために尽くすこと」を言います。
出会った皆さんが「利他の心」を持ち、社会を良くする方法を考え続けていることには、驚きました。

いつも自分の会社や従業員、そして家族のため、地域のために考え、忙しく行動していて、自分自身は全く「楽」をしていないのです。その姿には大変感銘を受けました。

そういう皆さんと接していくうちに、最初は「お世話になった、お檀家さんのため」と思っていた自分の気持ちが「地域の人たちのため」というように変化をしていきました。

さらにその中で、宝珠院と宝珠保育園の両方を営む自分が「何のために尽くすのか」と考えたときに、やはり「子どもたちのため」という気持ちが確固としたものになりました。

それが自分の「志」となったのです。

厳しい未来を生きる子どもたちのために何ができるか

今までの「宝珠のおたより」でも触れてきましたが、これからが大人になる子どもたちにとって、この世の中は決して楽ではありません。

人口の減少という逆風や、時代の激しい変化に追いついていく必要に迫られるなど、厳しい環境が予想されます。

そんな世の中を生き抜くためには「個の能力」を高めていくことが大事と考えています。

だからこそ、自分で体験し、自らの頭で考え、行動する力を身につけてもらえるような、保育・教育を実践しているのが、今の「宝珠保育園」なのです。

「1足す1は2。でもそれって、なぜだろう?」と考えられるような子どもたちを育てたいと思っています。

未来に輝けるような人間を育てることは、地域を良くすることに繋がります。

私がこれまで、様々なことを経験し、成長することができたのは、周りの皆さんのおかげです。
皆さんに作ってもらった、私です。

だから、今度は私から恩返しをする番です。

「利他の心が社会を良くする」

20代で入会し、たくさんの学びと成長の機会をいただいた日光青年会議所。
入会して10年がたった今年、私倉松は、第11代理事長に就任をしました。

これからも、宝珠保育園の園長として、宝珠院の副住職として、そして青年会議所の一員として、地域のために邁進をして参ります。

「利他の心が社会を良くする」
今はこの気持ちが揺らぐことはありません。

長くなってしまいましたが、少しは私のことを知っていただけましたでしょうか?
色々と書きましたが、まだまだ学ばなければいけないこともたくさんありますし、新米の父親としても奮闘中です。

ぜひお気軽にお声がけをいただければと思います。

宝珠保育園園長日光青年会議所新春式典